中国行きの顛末

大学を卒業してから3年間勤めた証券会社を辞めて、
父が経営していた会社に入社させてもらったのが、1993年の1月。

とにかく、父の会社に入れてもらった以上、
なんとしても貢献したいと思い、すぐに営業をさせてもらった。
しかし、当時の代表作であった売れ筋の「ホームベスト」や「ゴム地ベスト」は、
大手の小売バイヤーへの受けがイマイチだった。

イトーヨーカ堂やしまむらに
アポイントをとって、弊社の自信作「ホームベスト」を売り込もうとしたが、
相手にされなかったのだ。

あれ?
売れてるはずなのに。
当時の会社は売上15億ほどで、全国の問屋・前売屋へミセスのセーター中心に
販売していた。

私は当然のように、大手量販店に新規売り込みを試みたが、
取引をしてもらえなかった。
この会社大丈夫なんかな?
今の商品じゃあ、ヤバイ!

ということで、
国内で作ってたのでは、ダメだと思って、
もっと競争力のある価値ある商品を作れないかと海外に目を向けたのだ。

当時は、1989年の天安門事件から、日が浅く、
中国が世界の工場と言われるようになる前だったが、
台湾の商社から、中国で作ると、衣料品は安く作れると聞いていた。

そこで、なんとか中国へ行きたいと言いまくってたら、
野村証券倉敷店にいた友人が、
「中国へ毎月行ってるお客さんがいるよ」と教えてくれたのだ。

その友人を通してお願いすると、快諾してくれ、
1993年8月に、初めて中国に行くことができた。

最初は、その倉敷の中国通のおじさんと一緒に、
大阪伊丹空港から、上海の虹橋空港へ、そしてその人の仕事について蘇州へ。
29年前の上海や蘇州は、高層ビルがほとんどなく、
空港も白タクの客引きばかりで、人民服と自転車が溢れるのんびりとした街だった。

翌月からは、一人で行った。
スポットの通訳の人を現地でお願いして、セーター工場を探し、
試発注をしながら、取引先を増やしていった。

同じ頃、香港経由ながら、中国でフリースなどを作り始めていたのが、
ユニクロの柳井さんだった。
もっと自分も貪欲に行動しておけば、と思うことはしょっちゅうですね。

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